Zwischendingmann

雑念をなんとなく残す場所

サマー・オブ・ラブ。

サマー・オブ・ラブ。それは、花火大会での手マン。

隅田川花火大会に行ってきた。花火、ましてや人が密集する空間になど微塵の興味もないのだけど、既セクの香港娘が「浴衣を着て花火大会に行きたい」とわざわざ東京くんだりに遊びにくるという。その熱意に嫌々付き合ってやることにしたというのが事の顛末である。嫌々などと言いながら、クローゼットの奥から浴衣を取り出し、いそいそと着こんでいる自分も、それなりに日本の夏を楽しもうとしているのだろう。

昼過ぎに浅草駅で待ち合わせをして、商店街をブラブラとしながら彼女の浴衣を見繕う。小さな呉服屋で見つけたベージュ地の浴衣を気に入ったようで、帯やら髪留めやらを一式そろえ、その場で着付けまでしてもらいウキウキの様子だ。事実、浴衣を纏った彼女は、国籍が違うとは思えないくらい日本的な艶やかさを着こなしていた。大胆な露出がないはずの浴衣でこんなに色気が増すのは、いわゆる「攻防一如」ということなのかもしれない。守ることで攻撃力にバフがかかることもあるのだろう。不要な荷物を駅のロッカーに預け、昼からやっている炉端焼きの店で花火の始まりまで酒を飲みながら時間を潰した。

† † †

満員電車と化した橋沿いの道路は、夜空の花を待つカップルや家族連れで溢れていた。もちろん、多少の酒は入っているものの、僕らもまた群衆のひと組だ。群衆とは匿名性によって成り立っている。浮ついた熱帯夜、男女が多少露骨にいちゃついていようが、誰も気にはしないだろう。僕は彼女にバックハグをし、人混みの中で大会の開始を待った。花火という主役を前に、人類などモブでしかないのだ。

19時半になり、川沿いの中層ビルの向こう側で第二会場の花火が打ちあがり始めた。空気の振動とともに、人々の顔を断続的に火花が照らし、「きれいだねぇ」「夏だねぇ」などと愚にもつかない感想をこぼし合う。ただ、5分も見ているともう飽きてくるのは仕方がないだろう。このまま似たような花火が緩急をつけながら何発も何発も打ちあがり、燃えては散り、燃えては散り――その冗長さを弾数の規模感でなんとなくごまかして盛り上がるのが、隅田川花火大会なのだ。どうせ怒涛の大連発でフィナーレを迎え、観衆からは拍手が起こり大団円……そんなパンチラインが透けた花火などを見て、退屈しないはずがない。

開始15分を過ぎたころ、彼女を抱き込んでいた腕を少し動かし、浴衣のうえから彼女のパンティーラインをなぞりはじめた。そういえば幼少期から「手まぜ」ばかりをしている子どもだった。花火は続々と打ちあがり続け、そこにいる誰しもが空ばかりを見上げている。隣にいるカップルの腰元で、不穏な手指の動きが多少起こっていたとしても、どうせ誰一人気付かないだろう。花火の爆音をベースラインに、僕の脳内ではaikoの『花火』のメロディーが流れていた。

三角の目をした羽ある天使が
恋の知らせを聞いて
右腕に止まって目配せをして
「手マンしてみれば ^ ^」

きれいに着付けられた浴衣の裾に手を忍ばせ、汗ばんだ彼女の大腿を直に触る。僕の手の不可解な動きに気づいた彼女は、最初こそ怪訝な顔を見せたものの、すぐにアヘ顔の真似をしておどけはじめ、その顔を花火が照らす。どこで覚えたのか、彼女はアヘ顔がとてもうまいし、僕に負けず劣らずノリが良く頭が悪いのが彼女の魅力だ。

浴衣の下、帯の結び目ではないほうの「貝の口」に指を添わせる。目の前では、中学生くらいの男子グループがスマホを空に掲げている。おそらく彼らにバレてはいけない。いや、そもそも誰にもバレてはいけないだろう。公衆でそんなもん(=手マン)、ダメに決まっている。ただ、僕はこの日、100万人という群衆のひとりであり、群衆とは社会秩序を多少乱しても許される存在である。フランス人であれば政治にかまけて街を燃やすし、日本人なら人ごみに紛れて手マンをする。それが当然の帰結であり、民主主義の芽はそうやって繋がっていく。手マンは世直しでもあるのだ。

もちろん、AVのような激しいプレイは厳禁である。腕が不自然に動いていれば、さすがにまわりも気付くだろうし、あまつさえ「シャァッ!シャアッ!シャアッ!!」と江戸川手マン節を口ずさもうものなら、斜め向かいのDJポリスに即手錠をかけられる案件である。あくまでもバックハグで夜空を見上げる普通の男女を装わなければならず、指だけのソフトタッチに留めるのが江戸の流儀だ。静と動、その相反する動作の共存こそが、野戦の醍醐味なのかもしれない。

また、無秩序に彼女のおまんを弄るだけなら、それはただのプレイであり、興も滋味もない。花火大会における手マンは、花火の破裂音に合わせて彼女の膣内で中指を動かすという厳格なルールが制定されている。一般に手マンとは「前戯」に属する行為とされるが、僕はこの場で「本番」をするつもりなど毛頭ない。それ自体がフローであり、自己目的的な行為であって、手マンは手段ではなく、ゴールである。さながら粋な音ゲーと言ってよいだろう。卑近な例では『プロジェクト手マン カラフルステージ!』であるし、もっと僕世代で例えるなれば『TEMAN TEMAN REVOLUTION』でもある。

ドンッ!(クイッ!)ドンッ!(クイッ!)
ドドドドドッッ!(クチュクチュクチュクチュ!)

TTR攻略のコツは、光の点を追うことだ。打ち上げられたばかりの小さな火球は、おたまじゃくしのように、のろのろ、よたよたと夜空を昇り泳いでいる。その光がふと消えた少し先の軌跡上で、花火は一気に開花する。その瞬間に合わせて、中指で陰核をタップすればワンコンボ。あとはコンボを積み重ねていく、それだけだ。プロの音ゲーマーは手元など見ない。しっかりと夜空を見上げながら、ただし熟練のモールス信号の通信士のように、中指だけを動かし軽やかに打電するのがお作法である。「・・-・・- 一二〇八 ニイタカヤマ ノボレ・・-・・-・・・・-」

隅田川沿いで下世話な音ゲーに興じていると、だんだんと僕の指に合わせて花火が開花しているような錯覚に陥る。僕がうまくタップしなければ、花火は咲かない。4年ぶりの開催となった隅田川花火大会の成功は、僕の中指にかかっているとすら思えた。一介の花火師としてコンボを決めれば決めるほどに、花火の勢いは次第に増していき、彼女の膣内もどんどん湿り気を帯びていく。

† † †

笑いも芸術も、緊張と緩和が大事だという。花火の打ち上げが緩んだ隙、人で溢れた川沿いの喧噪のなかで、僕はふと周りを見渡す。右斜め前にいるカップルは過度に密着して花火を見ている。おそらく僕たちと同じ音ゲーをやっているのだろう。左隣のカップルも、花火を見つつ楽しくおしゃべりをしながら、たまに小鳥のようなキスを繰り返している。彼らもまた、腰元では小鳥のような手マンをしていることは想像に難くない。その奥にいる小さな子どもを抱っこした若い夫婦も、どうせ夫の右手は妻の陰部にあるはずだ。右を見ると、高校生くらいの初々しいカップルが手を繋いでいるが、たぶん彼氏のほうはガッチガチに股間を屹立させているだろうし、繋いだ手はジュンジュンに濡れているはずだ。物理ではない、心の手マン期と言っていいだろう。民俗学を紐解くまでもなく、古来より祭りとは男女の逢瀬の場だ。暗闇でまぐわい、子を成し、村のさらなる繁栄を祈る場であった。僕たちはその遺伝子を継いでいて、現代の花火大会においてもその気配は薄まりながら残っている。

8時半近く。プログラム上では『千紫万紅 隅田の花づくし』と名付けられた2050発の花火が乱舞する。グランドフィナーレを前に、花火の弾数も桁違いに多くなり、薬指も駆使する2本態勢でパーフェクトコンボを叩き出す。怒涛の連タップに彼女のベージュの浴衣はシミだらけとなり、最後の大輪に向けて会場の熱も最高潮だ。あちこちで嬌声が漏れ出し、花火の爆音でかき消され、こぼれたバルトリン腺液の小川は静かに隅田川に合流する。

ドーンッ! ドーンッ!

ドドドドドッ!!

ドドドドドドドドドドドドッ!

ドッダーンッッッ!!!!!!!!!!!

誰が見てもわかる最後の大輪が花開き、大歓声が巻き起こる。
あとからニュースで知ったのだが、隅田川花火大会の総合計は2万発超だったという。その夜、花火師としての僕の仕事は無事に終わり、隅田川は100万人の愛液で氾濫した。

『おいしいごはんが食べられますように』感想

「押尾さんが負けて芦川さんが勝った。正しいか正しくないかの勝負に見せかけた、強いか弱いかを比べる戦いだった。当然、弱い方が勝った」

第167回芥川賞受賞作。食事と恋愛がテーマでありながら、これだけ不穏で鬱屈とした空気が流れる「モヤモヤとした物語」はなかなか他に類を見ない。この「モヤモヤ」の正体はなんだろう、と考える。きっと、表面上は正しいけどどこか気持ち悪いもの、表面上は正しくないけどホッとするもの――その奇妙な感覚のねじれをうまく掬い出して描かれている点だと思う。

物語の舞台は、とある企業の地方支店のワンフロア。近年はどこの職場もコンプライアンスを遵守し、社会は「正しくあろう」という方向に進んでいる。ただし、明るく正しいものにも言いようのない不穏さは残る。そういったところに生じる社会の歪みのようなものをうまく切り取った作品だった。

話の本筋としては、「弱い女性」である芦川と「強い女性」である押尾の生き残りバトルのようなものかもしれない。持ち前の「弱さ」を武器に周りの庇護を受け生きていく芦川と、仕事ができてがんばり屋であるがゆえに芦川のサポートを強いられる押尾。押尾は芦川の「できないことを周りが理解している」という部分が苦手だという。同じ給料をもらっていても、配慮される人とそれを負わされる人になんとなく分かれてしまうのは、社会がうまく回るための「正しさ」かもしれないが、それによる歪みがこのふたりの関係に表れてくる。コンプライアンス、ポリティカルコレクト、優しい社会、弱者理解――そういったものを実践しようとしたとき、誰も芦川を責めることなどできないだろう。一方で、その「弱者カバー」が常態化してしまったとき、やはり押尾に肩入れしたくなってしまうのも仕方ない気がする。

余談ではあるが、つい最近ツイッターで「職場の発達障害を持つ人に潰されそう」という、悲鳴のようなnote記事がバズっていた。発達障害を持つ同僚のケア負担により、同僚のメンタルや職場が崩壊していく様が描かれていた(今はもう削除されてしまったようです)。僕自身は、「弱者は問答無用に片っ端から救済・支援していける優しい社会を目指せ」という思想の持ち主ではあるが、そんなキレイごとを言えないような現実問題も社会には山積しているのだなと気づく。社会福祉とは何か、とまで言ってしまうと風呂敷を広げすぎてしまうが、本書の弱者バトルともどこか繋がりがある根深い問題が表出してきているように思う。

 

主人公である二谷の「食に対するモヤモヤ」も、本書のもうひとつの主題だ。話の冒頭で、支店長が部下を蕎麦屋に連行した後、「飯はみんなで食ったほうがうまい」などと満足げな描写が描かれる。一方、話が進むと二谷や押尾は真逆の「みんなで食べると不味く感じる」という考えの持ち主であることがわかる。

また、二谷にとって食事は煩わしいものであり、食事に人生のリソースをかけたくないと考えている。栄養バランスの整った「正しい食事」を芦川に出されたあと、自分のなかで満たされない何かを補うように夜中にカップ麺を啜る二谷の描写も痛々しい。

「ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう」

こういった独白からも読み取れるように、二谷は一般に言われがちな「食」に対する言説にうまく馴染めず、小さな生きづらさを感じている。いわゆる「拗らせた思想」のようでもあるが、ここにも「正しさ」にうまく順応できない(あるいはしたくない)葛藤が描かれており、どこか二谷の気持ちに共感を覚える自分がいる。タイトルにもある「おいしいごはん」が内包するものは、実は人によって様々なのだと改めて思い知らされる。

 

本書のなかで秀逸だなと感じるのが、芦川が手作りのお菓子を差し入れるシーンの歪さ。相当な手間をかけて準備された、謝意と打算の象徴である手作りのお菓子は、本書の重要なキーアイテムだ。それを押しつけられる善意に対し、「おいしい!」「すごい!」と感動の演技を以て応えなければいけない、その社会人スキルの「気持ち悪さ」をビンビンに感じる。

正直なところ、甘いものが食べたければ自分で好きなものを買ったほうが楽だ。早退した相手がわざわざ自宅で手間暇をかけて持ってくるお菓子をいただく、その一連の「お作法」をめんどくさいと思うのは、協調性がなさすぎるだろうか。弱さのエクスキューズとしてのお菓子、それを受け取る際に強いられる気遣い……お菓子を囲んだ明るいシーンで負の感情が徐々に増幅していく描写は見事だと思う。

物語の最後のほうに、冒頭で引用したセリフが登場する。「ポリコレカードバトル」などという言葉も生まれている現代において、弱さの強者性という観点はもう避けては通れないほど張り詰めた爆弾になっている気がする。

 

 

 

『今日は誰にも愛されたかった』感想

「文法的にも、読めば全員わかる言葉なんだけれど、誰も口にしたことのないような言い回しを見つけたいんです。「誰にも愛されたかった」って、普通はあんまり言わないじゃないですか」

詩人・谷川俊太郎歌人・岡野大嗣、木下龍也の3名による詩と短歌の「連詩」が収録されている。連詩というジャンル自体ほとんど味わったことがなく、まして詩と短歌という異なるジャンルで織りなされる連詩をどう読めばいいのか――最初は気負って読み始めたものの、あまり頭でっかちにならずに触れるのが正解な気がした。

谷川→木下→谷川→岡野……という36作の詩と短歌の応酬によってつくられた連詩は、どこか不思議で楽しい詩情のやりとりだ。度々登場する謎の人物「市川」に代表されるように、随所に遊び心が散りばめられていて、この3人だからこそ生まれた作品なのだなと思う。

創作中の振り返りである「感想戦」は、また読み応えがあっておもしろい。岡野による第一詩の生みの苦労や、大御所である谷川からどんな詩が繰り出されるのだろうという歌人たちのドキドキ、若手を翻弄する老獪な悪戯心の種明かし、なぜこの言葉を選んだかの解説とそこへのツッコミ、タイトルがつけられるまでのやりとり……と、連詩が生まれていく過程の実況中継には、ここでしか知り得ない貴重な知見が散りばめられている。進行者が連詩のお作法について尋ね、谷川が大岡信の言葉を咀嚼しながら詩作への考え方を開陳するといったやりとりも、とても勉強になった。

連詩のなかで特にいいなと思ったものを引く。

「まぶしさに視線を折られぼくたちは夕日の右のビルを見つめた」(木下)

「四季が死期にきこえて音が昔にみえて今日は誰にも愛されたかった」(岡野)

「火で終わるのも水で終わるのも災害の一語ではくくれない

 戻らない人々を祝福するために俗に背いて詩骨をしなやかに保つ」(谷川)

 

特に結詩の「詩骨をしなやかに保つ」という感性は大切にしたいなと思う。
「詩骨」という強く意味深い造語でまとめてしまう谷川の技量には、真剣で向かってくる若者を木刀で鮮やかにいなす老師範との乱取りを見ているような気持ちになった。