Zwischendingmann

雑念をなんとなく残す場所

『現代生活独習ノート』感想

自分たちにはいくらでも時間がある。だからきっと通り過ぎていくものたちのどれかは、手になじんで輝いてくれるだろう。(P.269)

 

仕事が立て込んできたり、なんとなく人間関係に疲れたときに、つい手に取りたくなってしまう津村記久子。もはや、自分にとっての漢方薬のようなものだと思っている。

本作に収録されている8つの短編はいずれも、疲弊感や閉塞感を抱えた登場人物がメインで描かれている。情報社会に、家族関係に、職場に、それぞれがそれぞれの人生で一様に疲れている。そしてもちろん、それを読んでいる僕も疲れている。「エモい」よりはもっと低温でやさぐれ気味な、でもどこか心地よい“負の共感”を求めて読み進めた。

『レコーダー定置網漁』『粗食インスタグラム』『メダカと猫と密室』は、それぞれ津村らしさ溢れる、気だるいユーモアに安定感がある。テレビのレコーダーにたまたま録画された番組にハマり、靴下の毛玉取りに夢中になり、粗食ばかりの哀愁漂うインスタを投稿し続け、会社の資料室でメダカをこっそりと飼う主人公たち。それぞれが見出した小さな楽しみは、いつの間にか疲弊した自分へのケアと化していく。

そんないつもの津村節に加え、『現代生活手帖』にはやや突飛なSF的な面白さが、『イン・ザ・シティ』では青春小説のような甘酸っぱい爽快感が盛り込まれていて、これまでとはまた違う読後感が新鮮だった。

一方で、『台所の停戦』『牢名主』『フェリシティの面接』は、やや陰りのあるテーマを扱いながら、背中に氷を当てられるような不穏なユーモアが描かれている。暗いながらも闇に沈むわけではなく、病んでいるわけでもない。重いテーマでありながら暗くなりすぎずに、希望を仄めかしながら書き通す筆致はさすがだなと思う。

津村作品に通底してあるのは、「働きたくない、非課税で5億円欲しい」というような気だるさと脱力感。本気じゃないけど、ちょっと本気で、馬鹿馬鹿しいけど、ワンチャンそうあってほしいーーそんな自虐のようなユーモアを武器に、生きづらい社会と対峙していく主人公たち。効能はよくわからないが、なんとなく彼女たちに気力を分けてもらえたような気がするところが、僕がこの本を「漢方薬」だと感じる所以だ。西洋医学では解明されない滋養がここにある。

疲れがちな社会において、心を守る方法は人によって異なる。本書でも、登場人物がそれぞれのやり方で、ストレスばかりの社会に対処しながら生きている。まるでコーピング事例集のような短編集だとすら言えると思う。

コーピングリストは人によって様々だ。上司からの電話を投げ出して資料室に閉じこもってもいいし、妄想上の街づくりやスケートボードに興じるのもいい。『現代生活手帖』なんてカタログを枕元に置いて毎晩読み耽るのも、立派なコーピング足り得るのだ。

そんな物語の端々から、僕たちも心の守り方や肩の力の抜き方を「独習」していけたらいいなと思う。漫然とした抑圧への対処方法は、誰かに教えてもらうものでも、誰かのコピーで済むものでもない。自分に合ったやり方を模索し、自分の機嫌をとりながら、自分を上手にあやして生きていく。そんな「独り」の生き方を、押し付けがましくなく学ばせてくれる良書だと感じた。

 

 

 

『眠れる美男』感想

彼女が彼のそばにいることだけを願ったとしても、異なる人生体験や生活環境による社会的観念が、到るところでその可能性を阻むのである。(P.140)

 

過日、川端康成が描いた『眠れる美女』のオマージュとして、高齢女性の性を描く意欲作と書かれれば、それは読みたい気もしてしまう。ただ、2020年の作品とはいえ、どことなくストーリーの古臭さや、手垢のついたテーマだと感じてしまうのは、慣れない翻訳文体だからなのか、台湾というお国柄の違いなのか、または時代の移り変わりの目まぐるしさからなのか。

作中ヒロインの殷殷夫人が思い悩むあれこれというのは、現代日本では(個人的な差はもちろんあるが)もっと能動的に、あるいはもっとあっけらかんと、乗り越えられている現状があるのではないか、なんてことを思ったりもした。

(もしや、文学だけがこの分野から取り残されてきただけなの?!)

□ 老いし殷殷の悩み―高齢女性が性を語るうえで憚られるもの

作中ヒロインの殷殷夫人は、家柄の良い出自や地位の高い職に就く夫を持ち、自身も作家として成功している、「洗練された女性像」として描かれている。家父長制の強いアジア圏において比較的リベラルな思想を持ち、自立した女性の代表格ともいえるかもしれない。

そういった彼女も、歳を重ねることで、体の(主に見た目の)衰えを感じている。ジムに通いプロポーションを保つ努力を続け、そこで出会った年若き「小鮮肉」(いわゆるイケメン)パンへの恋心を抱くに至る。

若き肉体への欲望をタブーとして、その思いや高揚感、喪失感を仏教観や輪廻などのアジア的思想をこねくり回しながらどうにか自らを納得させようと翻弄される姿こそが、おそらくこの小説の読みどころなのかもしれない。その逡巡や道筋のつけ方が、仏教観念に疎い自分にはあまりピンとこなかった部分でもあり、昨今の韓国フェミニズム文学とも少し毛色の違うところだなと感じた。

これほど奔放で自由を許された存在である殷殷夫人でさえ、恋焦がれる若き男性の肉体へのアクセスはかくも憚られるものなのか。なんなら、殷殷への好意があるように思えるパンならば言葉巧みに籠絡することもできたのではないか。最終的に、パンに眠り薬を盛るに至った経緯が今一つ納得できなかったが、その独りよがりのエロスさえも、川端の時代などには(キモがられながらも)男性だけに許された(ように見える)特権であり、その独りよがりのエロスを女性も……という点に新規性があるのかもな、などとムリヤリ飲み込んだ。

一方で日本の現状はどうか。知り合いの50代女性は女性用風俗(女風)に足繁く通い、心の穴を埋める術を金銭を代償に得ている例がある。身なりに自身のある既婚子持ち女性の友人も、年若い男性とのワンナイトを多少の後ろめたさを公言しながらも楽しんでいる。ママ活という例も片手で足りないほど、身近にあったりもする。いずれも自由恋愛や運命の恋などとは毛色は異なるかもしれないが、若い肉体へのアクセスという意味では、日本は台湾よりずっと先を行っている(ブレーキが壊れている気もしなくはない)のかもしれない。そういう例を多く見ていたなかで、この小説を差し出されたときに自分が感じたのは「え、今ここ?」だった。

□ 眉目秀麗なパンの魅力

先述した「小鮮肉」という言葉について、本書にも細やかな注釈がある。(二十歳前後の美少年)と簡単に書かれてはいるが、日本の「イケメン」とは趣を異にする語義があるように感じた。「イケメン」が顔の美醜に焦点を当てているとすれば、「小鮮肉」は筋肉など身体を含めたセクシーさを包含しているように思う。おそらく「ぽっちゃり系イケメン」やガリガリな「不摂生イケメン」、フェミニンなかわいさを売りにした男子などは、顔がよくてもこの範疇には入らないのではなかろうか。まさに顔の造形だけでなく肉体の新鮮さを含めて美を見出す感覚は、欧米の感覚にも近いのかもしれない。

殷殷が最初に体の関係を交わす、トビーという「小鮮肉」の描写もまさに肉体についての記述がほとんどだ。黒シャツの下に存在感を見せる胸筋の張り、片手には収まらない逸物の存在感。それはパンに対しても同じであり、顔の美しさよりも身体の力強さ、雄々しさも相まって彼女は惹かれていく。この点は、作中でも言及されているように、中国古典作品の「書生」などには見出されない価値観の変化であり、昨今の日本の「推しのビジュがいい」とも少し異なる、雄々しさの讃美という点で興味深く感じた。

筋骨隆々だけでは「阿呆」と一刀される一方で、精神世界にのみ秀でた「書生」の魅力だけでは現代女性には物足りない。トビーはおそらく肉体面では及第点だったが精神面が欠落した「阿呆」として描かれており、その両者を兼ね備えたパンこそが殷殷の理想の男性像だったのかもしれない。

「小鮮肉」とは異なる概念として「小狼狗」(P.43)という表現もある。「わかいつばめ」とルビが振ってあるが、これを囲う感覚は嘲笑されるべきものとして扱われている。このあたりの感覚の違いがとても興味深いと感じた。上記の女風通いの女性や若い男の体を楽しむ不貞妻たちは「小狼狗」を漁っているだけなのだろうか。

□ 意外に描かれてきた、年下男性との官能世界

高齢女性が抱く年下男性への肉欲のタブーというが、なんとなく既視感を覚えたのはなぜなのか。おそらく、男性視点のエロスのジャンルとしては、繰り返し描かれてきたからではないかと思う。「熟女モノ」「団地妻モノ」といったジャンルは手を変え品を変えつくられ続けており、女性主導で若き肉体へアクセスしていく性の描かれ方というのは、質的な差(男性の願望に塗れたものばかり)という点はあれど、そこまで目新しくは感じないものだった。

さらに昨今では、女性主体の性を描く作品が多く生まれているなかで、「高齢女性」の性という分野もそこに包含されて、自分の既視感に繋がっている気もする。さすがに70代・80代の女性の躍動的なセックスストーリーはあまり見かけないが、50代・60代などは「美魔女」などという言葉も持て囃されたように、中年女性とそこまで大差なく描かれることも多くなってきているのではないか、とも思う。世代を細かく分けて解像度をどこまで高めるか、という話になってくるのかもしれないが、20代後半の女性が熟女キャバクラで働く現代において、殷殷夫人のような(おそらく)60代女性の恋愛を40代・50代の恋愛と切り分けて考える必要性がそんなに見えてこないなと思ったりもした。もちろん、自分がその年齢に達したときに、考え方は変わってくるのかもしれない。

一方で、本書の翻訳文体がなかなか馴染めなかったのはなぜなのだろう。冒頭でちょっと揶揄してしまったが、(~なのか?!)という「?!」文の多用や、中国古典の引用の多さについていけなかったからかもしれない。もちろん知らない世界について書かれた文章はとても興味深く、自分で調べながらなんとか理解しようと試みるのだが、それでもちょっともう少し噛み砕いてわかりやすく仕上げてほしかったという、スマホネイティブの甘えを自覚せざるを得ない一冊だったように思う。

とはいえ、筆致の確かさを感じる表現もとても多く、筆者の視点や海外文学を読む面白さを感じる部分もかなり多くあった。メッセージのやりとりでは、殷殷夫人が言葉を巧みに操り思いを表現する一方で、パンは動画や画像などビジュアルを切り取り送ることで思いを仮託する。「歳は漬物のようなもの」(P.52)「もはやバストと下半身だけが愛欲のありかではない」(P.71)「セックスとは、完璧なものでなくとも、顔の皺を弛めてくれる」(P.73)など、恋愛に対する金言が各章に散りばめられており、読後に付箋を貼った箇所を再読するだけでも楽しい。

□ カバー写真の美しさ

今回この本を手にしたきっかけは、ジャケ買いであった。テーマにももちろん興味はあったが、カバー写真の静かな魅力に惹かれたところが大きい。

調べると、カメラマンのJörgen Axelvall氏の作品であるようだ。被写体としての男性の美しさというのは、やはり「小鮮肉」の感覚に近いのかもしれない。作品テーマとカバーの作りのリンクになるほどなぁと思った。

 

 

サマー・オブ・ラブ。

サマー・オブ・ラブ。それは、花火大会での手マン。

隅田川花火大会に行ってきた。花火、ましてや人が密集する空間になど微塵の興味もないのだけど、既セクの香港娘が「浴衣を着て花火大会に行きたい」とわざわざ東京くんだりに遊びにくるという。その熱意に嫌々付き合ってやることにしたというのが事の顛末である。嫌々などと言いながら、クローゼットの奥から浴衣を取り出し、いそいそと着こんでいる自分も、それなりに日本の夏を楽しもうとしているのだろう。

昼過ぎに浅草駅で待ち合わせをして、商店街をブラブラとしながら彼女の浴衣を見繕う。小さな呉服屋で見つけたベージュ地の浴衣を気に入ったようで、帯やら髪留めやらを一式そろえ、その場で着付けまでしてもらいウキウキの様子だ。事実、浴衣を纏った彼女は、国籍が違うとは思えないくらい日本的な艶やかさを着こなしていた。大胆な露出がないはずの浴衣でこんなに色気が増すのは、いわゆる「攻防一如」ということなのかもしれない。守ることで攻撃力にバフがかかることもあるのだろう。不要な荷物を駅のロッカーに預け、昼からやっている炉端焼きの店で花火の始まりまで酒を飲みながら時間を潰した。

† † †

満員電車と化した橋沿いの道路は、夜空の花を待つカップルや家族連れで溢れていた。もちろん、多少の酒は入っているものの、僕らもまた群衆のひと組だ。群衆とは匿名性によって成り立っている。浮ついた熱帯夜、男女が多少露骨にいちゃついていようが、誰も気にはしないだろう。僕は彼女にバックハグをし、人混みの中で大会の開始を待った。花火という主役を前に、人類などモブでしかないのだ。

19時半になり、川沿いの中層ビルの向こう側で第二会場の花火が打ちあがり始めた。空気の振動とともに、人々の顔を断続的に火花が照らし、「きれいだねぇ」「夏だねぇ」などと愚にもつかない感想をこぼし合う。ただ、5分も見ているともう飽きてくるのは仕方がないだろう。このまま似たような花火が緩急をつけながら何発も何発も打ちあがり、燃えては散り、燃えては散り――その冗長さを弾数の規模感でなんとなくごまかして盛り上がるのが、隅田川花火大会なのだ。どうせ怒涛の大連発でフィナーレを迎え、観衆からは拍手が起こり大団円……そんなパンチラインが透けた花火などを見て、退屈しないはずがない。

開始15分を過ぎたころ、彼女を抱き込んでいた腕を少し動かし、浴衣のうえから彼女のパンティーラインをなぞりはじめた。そういえば幼少期から「手まぜ」ばかりをしている子どもだった。花火は続々と打ちあがり続け、そこにいる誰しもが空ばかりを見上げている。隣にいるカップルの腰元で、不穏な手指の動きが多少起こっていたとしても、どうせ誰一人気付かないだろう。花火の爆音をベースラインに、僕の脳内ではaikoの『花火』のメロディーが流れていた。

三角の目をした羽ある天使が
恋の知らせを聞いて
右腕に止まって目配せをして
「手マンしてみれば ^ ^」

きれいに着付けられた浴衣の裾に手を忍ばせ、汗ばんだ彼女の大腿を直に触る。僕の手の不可解な動きに気づいた彼女は、最初こそ怪訝な顔を見せたものの、すぐにアヘ顔の真似をしておどけはじめ、その顔を花火が照らす。どこで覚えたのか、彼女はアヘ顔がとてもうまいし、僕に負けず劣らずノリが良く頭が悪いのが彼女の魅力だ。

浴衣の下、帯の結び目ではないほうの「貝の口」に指を添わせる。目の前では、中学生くらいの男子グループがスマホを空に掲げている。おそらく彼らにバレてはいけない。いや、そもそも誰にもバレてはいけないだろう。公衆でそんなもん(=手マン)、ダメに決まっている。ただ、僕はこの日、100万人という群衆のひとりであり、群衆とは社会秩序を多少乱しても許される存在である。フランス人であれば政治にかまけて街を燃やすし、日本人なら人ごみに紛れて手マンをする。それが当然の帰結であり、民主主義の芽はそうやって繋がっていく。手マンは世直しでもあるのだ。

もちろん、AVのような激しいプレイは厳禁である。腕が不自然に動いていれば、さすがにまわりも気付くだろうし、あまつさえ「シャァッ!シャアッ!シャアッ!!」と江戸川手マン節を口ずさもうものなら、斜め向かいのDJポリスに即手錠をかけられる案件である。あくまでもバックハグで夜空を見上げる普通の男女を装わなければならず、指だけのソフトタッチに留めるのが江戸の流儀だ。静と動、その相反する動作の共存こそが、野戦の醍醐味なのかもしれない。

また、無秩序に彼女のおまんを弄るだけなら、それはただのプレイであり、興も滋味もない。花火大会における手マンは、花火の破裂音に合わせて彼女の膣内で中指を動かすという厳格なルールが制定されている。一般に手マンとは「前戯」に属する行為とされるが、僕はこの場で「本番」をするつもりなど毛頭ない。それ自体がフローであり、自己目的的な行為であって、手マンは手段ではなく、ゴールである。さながら粋な音ゲーと言ってよいだろう。卑近な例では『プロジェクト手マン カラフルステージ!』であるし、もっと僕世代で例えるなれば『TEMAN TEMAN REVOLUTION』でもある。

ドンッ!(クイッ!)ドンッ!(クイッ!)
ドドドドドッッ!(クチュクチュクチュクチュ!)

TTR攻略のコツは、光の点を追うことだ。打ち上げられたばかりの小さな火球は、おたまじゃくしのように、のろのろ、よたよたと夜空を昇り泳いでいる。その光がふと消えた少し先の軌跡上で、花火は一気に開花する。その瞬間に合わせて、中指で陰核をタップすればワンコンボ。あとはコンボを積み重ねていく、それだけだ。プロの音ゲーマーは手元など見ない。しっかりと夜空を見上げながら、ただし熟練のモールス信号の通信士のように、中指だけを動かし軽やかに打電するのがお作法である。「・・-・・- 一二〇八 ニイタカヤマ ノボレ・・-・・-・・・・-」

隅田川沿いで下世話な音ゲーに興じていると、だんだんと僕の指に合わせて花火が開花しているような錯覚に陥る。僕がうまくタップしなければ、花火は咲かない。4年ぶりの開催となった隅田川花火大会の成功は、僕の中指にかかっているとすら思えた。一介の花火師としてコンボを決めれば決めるほどに、花火の勢いは次第に増していき、彼女の膣内もどんどん湿り気を帯びていく。

† † †

笑いも芸術も、緊張と緩和が大事だという。花火の打ち上げが緩んだ隙、人で溢れた川沿いの喧噪のなかで、僕はふと周りを見渡す。右斜め前にいるカップルは過度に密着して花火を見ている。おそらく僕たちと同じ音ゲーをやっているのだろう。左隣のカップルも、花火を見つつ楽しくおしゃべりをしながら、たまに小鳥のようなキスを繰り返している。彼らもまた、腰元では小鳥のような手マンをしていることは想像に難くない。その奥にいる小さな子どもを抱っこした若い夫婦も、どうせ夫の右手は妻の陰部にあるはずだ。右を見ると、高校生くらいの初々しいカップルが手を繋いでいるが、たぶん彼氏のほうはガッチガチに股間を屹立させているだろうし、繋いだ手はジュンジュンに濡れているはずだ。物理ではない、心の手マン期と言っていいだろう。民俗学を紐解くまでもなく、古来より祭りとは男女の逢瀬の場だ。暗闇でまぐわい、子を成し、村のさらなる繁栄を祈る場であった。僕たちはその遺伝子を継いでいて、現代の花火大会においてもその気配は薄まりながら残っている。

8時半近く。プログラム上では『千紫万紅 隅田の花づくし』と名付けられた2050発の花火が乱舞する。グランドフィナーレを前に、花火の弾数も桁違いに多くなり、薬指も駆使する2本態勢でパーフェクトコンボを叩き出す。怒涛の連タップに彼女のベージュの浴衣はシミだらけとなり、最後の大輪に向けて会場の熱も最高潮だ。あちこちで嬌声が漏れ出し、花火の爆音でかき消され、こぼれたバルトリン腺液の小川は静かに隅田川に合流する。

ドーンッ! ドーンッ!

ドドドドドッ!!

ドドドドドドドドドドドドッ!

ドッダーンッッッ!!!!!!!!!!!

誰が見てもわかる最後の大輪が花開き、大歓声が巻き起こる。
あとからニュースで知ったのだが、隅田川花火大会の総合計は2万発超だったという。その夜、花火師としての僕の仕事は無事に終わり、隅田川は100万人の愛液で氾濫した。